「トゥルルルル~♪」。先日、それは気だるい猛暑日が連日続く南国パタヤのある晩のことだった。飲みの誘いかと在住の友人からかかってきた電話に出ると、予想に反して彼から神妙な声色の第一声が耳元に届いた。「もしもし?ちょっと話したいことがあってさ・・」。「何?どうかしたの?」。「いや、唐突な話なんだけどさぁ、ビリヤード場によく来てたロビンってイングランド人、覚えてる?」。「ああ、覚えてるよ。あのビリヤードが上手い長身銀髪のオッサンでしょ。で、彼がどうかしたの?」。「奴さぁ、数日前にポリスに捕まって強制送還されたらしいよ。実は15年程前にイングランドで嫁さんをナイフで刺殺してずっとタイに逃亡していたらしい・・」。「マ、、マジで!!!???」。「マジマジ、今、ビリヤード場の仲間内では毎日その話でもちきりだよ」。「し、信じられん」。
イングランド人のロビン。彼は行きつけのビリヤード場に行った際によく見かけた顔で僕にとっては顔見知り程度、目が合えば挨拶を交わすぐらいの仲でしかないが、僕がそのビリヤード場に通い始めたずっと前からいる常連のような存在で年の頃は70歳過ぎ、180cm程の長身細身の体躯で、いつも小奇麗な襟付きシャツにジーンズ、革靴とラフな服装が多いパタヤにあって幾分スマートな身なりの英国紳士といった出立ちで、ホットコーヒーorビールを嗜みニヒルに煙草を吹かせながら、ビリヤードに興じる姿は見ていて惚れ惚れするような、まさに老人ハスラーといった雰囲気だった。
ゆったりとしたフォームから繰り出される繊細かつ正確な球捌き、相手を翻弄する緻密で老獪なセーフティー、その腕前も皆から一目置かれるような人物で、大したレベルではない僕からすれば、羨望の眼差しで彼のプレーを参考にしていたし、その飄々としたあくのない佇まいにダンディーで渋いオヤジ像、憧れる男(歳の取り方)といったような印象を抱いていたことも確かだった。実際、友人も、そしてビリヤード場の面々たちも、「まったく、あの彼が、信じられない・・・」という言葉しか見当たらないようだが、いやはや人間とは本当に分からない生き物である。
皆が知ったのはタイから強制送還された後のことなので詳しい事情はよく分からないらしいが、殺人で国外逃亡ということはロビンという名前も当然偽名だろうし、偽造パスポートでずっと過ごしてきたのだろう。それにしても15年間、逃亡生活をしていたとは全く信じられないという実感しかないのだが、海外逃亡には時効がないとも聞くし、今更ながらバレて捕まってしまった経緯とはいったい何だったのだろうか。まぁ、国際指名手配中であったのは間違いないだろうが、昨今の管理システムとか判別技術が向上したことにより偽造パスポートであることがバレたのか。あるいは、友人によると彼はイングランドに一人息子がいることを話していたらしいので何かしら連絡を取ったことからバレてしまったのかもしれない。
また、彼にはタイ人の奥さんもいて、よく一緒にビリヤード場に来ていた姿を見かけていたし、彼女自身も古い常連客の一人であるのだが、ロビンが強制送還になった後、彼女はいたって普通にビリヤード場に顔を出しているようでさほど悲しい様子を見せているわけでもないらしい。更に聞くと以前から彼のことを「あのジジイ早くくたばればいいのに」的な言葉を口走ってみたり、タイ人男の影もチラついていたらしいというから、もし仮にロビンが自分の過去を彼女にだけ告白していたとしたら、彼女から密告されたという説も考えられるということだった。というのもパタヤにはロビンが購入した家が残っており、それが彼女のものとなるからである。彼女はロビンの過去など全く知らなかったと警察に伝えているらしいが、幾分清々したかのような彼女の振る舞いに皆、少なからず疑念を抱いているとのことだった・・。(恐ろしや)
と、テレビ番組アンビリーバボーでありそうなストーリーでもあるが、真実は小説より奇なり。その真実は今頃イングランドの刑務所に送還されているであろうロビンにしか分からないことなのかもしれないが刑期を想像するに彼の残りの人生はブタ箱の中で終えることになるのかと考えると半分同情、そして兎に角他人の本性など全く分かったもんじゃないなと何か胸を締めつけられるような陰鬱な気分にさせられるだけであった。いや、ロビンにはぜひ余生を送る刑務所の中で告白自伝本でも書いて欲しい次第である。
フィリピン、タイ、、東南アジアは犯罪者が海外逃亡を目論む際によく出てくる国である。実際パスポート盗難とか偽造パスポートなど普通にあるような裏世界が確かに存在するし、まだまだ未開発の国を介して陸路で密入国することなどさほど難しいことではないとも思う。入管の審査が厳しくない半ば原始的な国境など幾らでもあるのがアジアの現実である。タイでは昔から北朝鮮からの脱北者が中国~ラオス経由で密入国してくるニュースを度々目にするし、タイの田舎(辺境地)に行けばラオス人やカンボジア人、ミャンマー人、山岳民族など出身地(国籍)が曖昧な人々を見かけることもある。
そして、ここパタヤは特に世界各国からの観光客に長期滞在者など様々な人種が入り混じり存在するB級リゾート、マフィアが暗躍する観光特区、タイ随一の歓楽街を有する街である。数年前にバンコクの家屋で起きた爆弾騒ぎの際アラブ系の実行犯は犯行前にパタヤを満喫していた事実が数日一緒にいた売春婦から判明していたし、今、巷を騒がせているマレーシア航空の不明機ではタイで盗難に遭ったパスポートで搭乗した人物がいたとか、その航空券を発券したのがパタヤの旅行代理店なんて話もあるようだ。
そして、実際、このアバウトな国タイの猥雑な街パタヤに長く身を任せている僕ですら、これまでに人送り(密入国)の話とか詐欺じみた商売話、怪しい人間などを見聞きした経験が少なからずあるのが現実である。今回のイングランド人ロビンの案件も結局は氷山の一角というのが実態なのかもしれない。だからこそ僕はこの国、この街で知り合った異国人に対しては簡単に信じようとはしないし、深く係わり合いになることも極力避けるよう用心している。一般的な日本人の価値観から考えるとこの街に足繁く通い特に夜の世界に魅了されどっぷり浸かってしまった人に普通の人間などいないと考えていいのかもしれない。
そして、それは日本人としての一般的な価値観というものを凡そ捨て去り、日本の社会から逃げ出してきたという点では僕も全くもって普通ではないし、逃亡者と言えるのかもしれない。だが、この人種のるつぼとも言える混沌とした空間は根無し草のように刹那的に生きるろくでなしの僕を暖かく受け止めてくれる。全ての人間を優しく受け入れる寛容さがある。僕にとってのパタヤ逃亡生活はいつまで続くのだろう。その行方は自分自身でも分からない。ただ一つ分かっていること、僕が日本を飛び出した時に強く思ったことは、自分の道(将来)が簡単に予測できることほどつまらない人生はないということだ。ただただ想像不可能な人生を
歩んでいきたい。自分が考えてもいなかった何者かになりたい。ふらりと流れ流されるままに・・。
Good Guy goes to Heaven, Bad Guy goes to Pattaya.
そして、じりじりと照りつける南国の太陽と気だるい空気はそんな人間たちのちっぽけな思いや存在すら瞬く間に溶かし、夜の街を彩るネオン群と熱気を帯びた人々のざわめきに、ただかき消されていくだけである。